家督相続と争いの始まり

父親の輝宗は早い段階から梵天丸に立場を継がせる腹積もりでした。

実際10歳の折に元服させ「政宗」という名を授けます。この「政宗」という名は、伊達家中興の始祖と見られている9代目のトップにあやかろうと試みてのものです。この名を授ける事で「梵天丸に立場を継がせる」という事を外部にも内部にも表明したのです。

伊達家の中には、伊達政宗の弟に当たる小次郎を当主にしようとしていた勢力も存在し、それをブロックする意味もあったそうです。そして伊達政宗が17歳の折(1584年)には、早々に輝宗は隠居し、家督を託します。伊達政宗は「若すぎるから」と拒否しようとしますが、家臣達の奨励に負ける形で17代目のリーダーとなりました。次の年には早速軍事的行動を始めています。会津(福島)の小浜城のトップ・大内定綱が、武将の畠山義継と協力して、田村氏の支配から逃れようとします。田村氏は伊達政宗の妻の生家であり、伊達氏のサポートをしていましたから、伊達政宗はこの動きを制圧すべく軍隊を出します。伊達政宗は大内定綱が仕切っていた小手森城を取り囲み威嚇目的で城に住む人々を余さず殺害するという激しい対応を取りました。「何となく」……良く言えば「穏便に」流される事が大半だったその頃の東北の環境を考えれば、ありえない程の厳しい態度でした。伊達政宗がそれまでとは違う動きを見せる事を決断していたという事が分かります

これを受けて大内定綱と協力していた畠山義継は伊達政宗に恐怖を感じ、その父親の輝宗に仲立ちを頼み込みます。その成果(というにはあまりに寂しいですが)として、領地をたった5つの村に縮小する事を前提として、伊達政宗に降参するという取り決めを成します。

しかし義継はこの対応に反抗し、恩義のある輝宗に仇を成し、輝宗を誘拐して、領地に戻ろうと試みます

この窮地を知った伊達政宗は義継達を追い掛け、輝宗を含めて鉄砲で撃ち殺してしまいました。伊達政宗による激しい対応が、このような皮肉な結果となって伊達家に巡ってきたのです。このような事が起きても伊達政宗は勢いを止めず、常陸(茨城) 会津 陸奥 が絡む巨大な争いにエスカレートしていくのです。